宮崎カリタス修道女会
 

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[3] 約束の地 宮崎へ



1926年2月16日午前11時頃、チマッティ神父を団長とする宣教団の一行は、宣教活動の拠点となる宮崎市に到着した。パリ外国宣教会ボネカーザ神父(宮崎教会主任司祭)をはじめ、宮崎教会信徒のグループは、宮崎駅まで人力車で出迎えに来ていた。すでに新聞で報じられていたため、宮崎駅から宮崎教会までの沿道には外国人を見ようとする人びとがつめかけていた。一行は「万歳、万歳」の歓呼の中を一人ずつ人力車に乗せられて、市民の好奇のまなざしの中を教会まで進んだのである。
宮崎教会はきれいな日本式の木造建ての教会で、その中には、日本の聖母(殉教者の元后、キリスト信者の扶助者聖母の称号で呼ばれている)が置かれてあり、宣教団は深い喜びと感動の中で聖母像の前で自分を捧げて熱心な祈りを捧げるのだった。「神に感謝!」早速、ボネカーザ神父と伝道士の安部氏は、サレジオ会の宣教師たちに、日本語の勉強と日本の独得の生活様式について指導を始めた。日本語しかわからない安部氏と、フランス語で訳してくれるボネカーゼ神父のもとで、小学校の国語の教科書を使っての勉強は、宣教師たちにとって大きな犠牲であった。カヴォリ神父は、気候、食事、言葉の問題で苦労が重なり、体調を崩すほどだった。それは、他の兄弟たちにとっても同じだった。チマッティ神父はこう述べている。「貧困、窮屈、犠牲のうちに、かくれた準備期間の生活を開始する。私たちが自分の任務を最後まで遂行するよう神の助けがありますように。」

ここで、9名の宣教師団の中から団長のチマッティ神父、カヴォリ神父、そして、リビアベッラ神父について紹介しよう。

チマッティ神父
46才で来日。1935年、宮崎は「知牧区」に昇格し、初代教区長となる。1937年、日本サレジオ管区が設立され、初代管区長となる。1965年86才で神に召されるまで、心から日本を愛し、宣教師として活動を続けた。その類稀な音楽の才能から、生涯900曲以上も作曲し、日本各地で演奏活動を行った。また、農学部で自然科学の博士号を修得したチマッティ神父は、一生の間、自然に対して深い関心を示した。師にとって、「自然は神に創造されたものであり、それを通して神の知恵と愛を悟ることができる」と言っていた。チマッティ神父は日本の文化や考え方に深い尊敬と理解を示し、多くの人びとの心を勝ち取ることができた。その生涯は、神への想いと、人々に捧げられたものだった。

カヴォリ神父
イタリアのリミニ教区の司祭であったアントニオ・カヴォリ神父は、第一次世界大戦で従軍司祭の経験を経た後サレジオ会に入会。37才で来日。宮崎教会において、初めは主任司祭のチマッティ神父の助手として、後には主任司祭として、社会の中で最も貧しく小さな人々に愛の手を差し伸べる教会活動を活性化。身寄りのない老人や子どもたちのための総合福祉施設「救護院」(後の「カリタスの園」)を設立。その後、1937年、上長であったチマッティ神父の勧めに従って「宮崎カリタス修道女会」を創立。1972年11月22日、84才で神に召されるまで会員の養成と霊魂の救いのために働いた。

リビアベッラ神父
29才で来日。7年後カヴォリ神父が始めた救護院の副院長として就任し、救護院(当時の福祉施設)のために2年間のイタリア募金旅行に出かけたこともある。彼は創立当時からカリタス会をずっと見守ってくださった方である。第一回宣教師団の最後の証人となった彼は、1982年に86才で亡くなるまで日本人の霊魂の救いのために働いた。



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