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[30] 救護院を守った聖母像



この写真は、宮崎での爆撃から救護院を守ったとして語り継がれている1945年当時の扶助者聖母のご像です。
このマリア像の背中の部分に機銃の弾丸がめり込み、不発のまま残っていた。

カヴォリ神父や他の外国人神父たちが阿蘇山腹に強制収容連行されるとすぐ、日本人神父、神学生も皆召集された。カリタス会学生志願者たちも強制的に徴用され、救護院の学童までが、保線区に徴用されるようになった。
シスターマリア長船はカヴォリ神父不在中、救護院をわが身にかえても守り通さなければならないと、皆を聖堂に集めて毎日祈るのであった。

1945年8月12日。この日、宮崎市が一斉に爆撃を受けた。救護院近くの煙草乾燥場が爆撃を受けたため、ガスタンクが爆発し、救護院の窓ガラスが割れてしまった。昼夜問わず燃え続けるその様は、地獄さながらの恐怖の絵巻物のようだった。シスターマリア長船は、子供だけは安全なところに写すことに決め、12日の真夜中、学童全員を田野に疎開させることにした。明け方2時のことだった。6歳から11歳までの子供たちは20キロの道程を、敵機の爆撃の恐怖におびえながら、安全な場所へと急いだ。乳幼児たちはシスターたちが連れて救護院近くの山の中に疎開させた。残った老人たちは、皆が守られるようにと、聖堂で聖母マリアに祈っていた。
 

 

宮崎市も日本全国と運命をともにし、市の三分の二は、焦土と貸した。しかし救護院は、機銃掃射を受けて外傷を負ったものの、建物全館は無事で、一人の犠牲者も出なかった。まさに、聖母マリアの救いによるものであった。シスターマリア長船が、カリタスの園のもっとも安全な避難場所と選んだ場所は、聖母マリアの前に皆を集めることだった。彼女はカヴォリ神父不在中の保護を聖母マリアに委ねたのである。

実際、聖母マリアはカリタスの園を保護されたのである。それは終戦後、外面的に痛めつけられた建物を修復していた時に、明らかにされた。建物は爆撃や機銃掃射、それに暴風雨などで相当にあちらこちら痛めていたが、ある部屋の内部にいくつかの弾丸が突き刺さっていたのと、ひとつの弾丸が聖堂の外壁を貫通して聖母像の頭に留まっていたのを発見した時、皆は改めて聖母の力強い助けに驚き、深い感謝を捧げた。

当時を回顧して一人の修道女が次のように話している。
「終戦の数日前、米軍機が一機、救護院の上空を長時間旋回していました。カリタスの建物を目標に急降下し、二個の焼夷弾を投下しましたが、建物から逸れて近くの樹木を焼きました。その後も屋根すれすれまで飛行機は降下し、機銃掃射を浴びせ、何回も上空を旋回していたのです。みなは防空壕に集まり、ふるえながら祈りました。“アヴェ・マリステルラ”を歌いました。」

 


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