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扶助者聖マリアの祝日

2017.05.24

私たちはサレジアンファミリーのメンバーですが
5月24日は私たちにとっては扶助者聖マリアのお祝いの日です。
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ファイル 549-1.jpg 外の扶助者聖マリア様
教会の典礼歴にはないのですが、
私たちは伝統的にこの日を祝っています。
(毎月24日も扶助者聖マリアを記念しています)
以前は誓願式もこの日にしていたのです。

今日もサレジオ会の神父様がミサにおいでくださり、
荘厳にお祝いいたしました。
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5月はちょうどお花の美しい季節
聖母マリアをお祝いするのにふさわしい月ですね。
ファイル 549-3.jpg 聖堂の扶助者聖マリア様

本日の福音 レビの召命

2017.01.14

今日の福音はマルコの福音書からレビの召命です。
この福音を聴くとローマにあるフランスの教会(聖ルイジ)にある
カラバッジョの絵が浮かんできます。
カラバッジョの絵は光と影が特徴的です。
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今日の福音の
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。
群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。

この部分を表している絵です。

イエスのレビを呼ぶまなざしと指先に強い意志を感じます。
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そしてレビは?
説があるそうです。
中央の「私がでですか」と言っている感じの男の人
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でもこの人はお金を数えている人をさして「この人ですか?」
と言っているようでもあるという説

私は最初この絵を見た時 下を向いてお金を数えている男だと感じました。
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しかしながら、この絵で一番感動したのは
金持ちを呼ぶイエスが裸足であることを説明して頂いたときです。
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貧しい人の友であるイエスの本当の姿を感じることができました。
このイエスに呼ばれたから、レビは数えているお金よりも
イエスに従うことを選ぶことができたのだと思います。

イエス様を待ち望む季節 待降節

2016.11.27

今日から待降節が始まりました。
私たちの聖堂にもアドベント・キャンドルが灯されました。
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これはクリスマスつまり、12月24日の直前の日曜日を基準にして、その4週間前から、毎週日曜日に1本ずつキャンドルに火をつけて、クリスマスを準備するためのものです。

今日のミサで次のようにお祈りしました。

「父である神よ、あなたは救いを待ち望むすべての人と共にいてくださいます。待降節を迎えた私たちの心を照らしてください。争いや対立が絶えないこの世界にあって、キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。」

クリスマスに真の光である、イエスに出会うことができるように
お祈りをしたり、よい行いをしたり、だれかのためになることで
良い準備をしたいですね。

マリアの奉献

2016.11.21

今日は聖マリアの奉献の日です。これは、マリアは、幼いころ両親によって、エルサレムの神殿に仕えるためにささげられたという伝承によるものです。
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ローマの聖ペトロ大聖堂の壁画にそれを表しているものがあります。
厳かさと同時に幼い聖母マリアの凛々しくも、
かわいらしいお姿によってご両親と聖マリアの愛情、
そして神への深い信仰を黙想することができます。

聖マリアの誕生の祝日

2016.09.08

今日は聖マリアの誕生をお祝いする日であり、
同時に神がすべての人を救うために
このように前もって聖マリアを選び計画してくださった
その慈しみのわざに感謝を捧げる日ともいえます。
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マリアの誕生の場面

ミサの時にささげられる祈願では次のように祈ります。

  いつくしみ深い神よ、
  あなたはおとめマリアの誕生を祝福し、
  救いの芽生えとしてくださいました。
  信じる者に恵みを注ぎ、
  きょう、聖マリアの誕生を祝うわたしたちに
  平和をお与えください。

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幼いマリア

 このように今日は 神のみ心に合せ、世界の真の平和のために
いのりましょう。

聖ヨゼフ 私たちのためにお祈りください

2016.03.19

今日、3月19日は聖ヨゼフを記念します。神の救いのわざの実現に深くかかわる聖人として“祭日”として大きな祝いを致します。
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私たちの修道会も会の保護者としてまた奉献生活の模範として聖ヨゼフに特別に祈り、祝います。

今日のミサの時のマタイの福音では「夫ヨセフは正しい人であったので」と言われます。

聖ヨゼフが“正しい人”と言われるのはまず聖マリアの「配偶者としてすばらしい性格を持っている」からです。
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「ヨセフは主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ」ました。
聖マリアが聖霊によってイエスを宿したように
夫としての聖ヨゼフの愛もまた、聖霊によって
新たにされたといえます。

聖霊によって人の心に注がれる神の愛は
すべての人間的な愛をもっと完全なものに作り上げられます。

神は夫婦の愛も独特な仕方でそうされます。
人間的にみてふさわしいもの、美しいもの、
ひたすらな自己奉献のしるしとなるもの、
人間同士の契約、三位一体の神の愛を模範とするまことの共同体。

聖ヨセフは聖霊ご自身の中に夫としての夫婦の愛の泉を見出した
「正しい人」なのです。    「救い主の保護者聖ヨゼフ参照」
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聖ヨセフは労働者の保護者、従順の模範としてその徳に倣うように勧められますが私たちの修道会で神の摂理に対する信頼の模範として伝統的に祈られています。
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修道会の貧しい時代、会の施設の子供たちやお年寄りに食べ物がなくて困ったとき、いつも聖ヨゼフに祈って助けられてきました。

東京教区修道女連盟の研修会

2016.01.06

今日は東京教区修道女連盟の新年会・研修会で、四谷の麹町・イグナチオ教会に東京教区の300人の修道女が集まりました。
Am.9:30から岡田大司教様司式のミサ
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私たちは聖歌隊です。
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ミサの後は「“奉献生活の年”を終えるにあたって」のテーマで菅原神父様による講演。
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ローマ在住の神父様だからうかがえる現在の教会の動き、教皇様のこと、奉献生活のことを楽しく、そして真剣に学ぶことができました。“奉献生活は教会に与えられた恵みである”との、励ましも責任もを感じるこのことばの意味を噛みしめて、今年もがんばりたいと思いました。

主の変容

2015.08.06

ルカによる福音9章28b~36節

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今日は主の変容を記念する。ミサの説教はとても感動的だった。

弟子たちを前に神々しく光り輝き、神としての姿を垣間見せるキリストが
今日の福音の中で描かれている。
そんな中、「これは、私の愛する子。彼に聴け。」という御父の声が響く。
イエスは父である神からお墨付きをいただいたのだ。今から受難に向かう
イエスにとって、どんなに力強い言葉であっただろう。

ヨハネに洗礼を受けた時にも、天から御父の声が響いたことを思い出す。
これから育った家を離れ、メシアとしての活動にはいるイエスが、
「これは私の愛する子。わたしの心にかなう者」という父からのお墨付きを
いただく。まだ何も始めていないイエスに、神は無条件に太鼓判を
押された。

生まれたての赤ちゃんを「よし、よし、可愛い子だね」とあやす母親に
似ているかもしれない。何もできない赤ちゃんは、この世に生まれたこと
事態が喜ばれ、無条件の愛と賛辞を注がれる。そのようにして、この世の
荒波に出ていく下地ができていく。ありのままの自分を受け入れられて、
ありのままの自分を受け入れる自信に繋がっていく。

神は私たちにも「何もできなくてもいいんだよ。あなた自身を愛している
んだから」と言って下さる。だから、あまり心配しずぎることなく、御父が
言われたように、イエスの言葉に耳を傾けることを大切にしながら、
進んでいこう。

カナンの女の信仰

2015.08.05

マタイによる福音15章21~28節

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今日の福音を読むと、イエスはなんと冷たく、そっけないんだろうと思いたくなるかもしれない。娘の病気を癒してくださいと必死に頼む婦人に対して、すぐに応えようとしないイエスがいる。今でこそ、キリスト教は普遍的な宗教で、すべての人に開かれているが、当時のユダヤ社会にあってはイスラエルの民こそ選民であり、異邦人に対しては閉鎖的な態度が取られるのが常識であったことを思えば、このイエスの態度も人々の目には特に奇異に映ることはなかったと思う。しかしながら、最終的には、何度も頼み込むその婦人に対して、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」といって娘の病気を癒された。

いろいろな説がある。イエスは彼女の信仰を試すために奇跡を引き延ばしたとも言われる。果たしてそうであろうか。私たちの粘り強い説得は神の考えも動かすこともあるのではないか。私たちの心からの祈りは神を感動させることがないであろうか。カナの婚宴で水をぶどう酒にかえた時もそうだった。神は全能の神だから、初めから計画されたことを断固押し通す神であろうか。そうではないと思う。神のみ旨は、対話と関わりを通して実現されていく。もちろん思うような結果が得られないこともあるだろう。神はすべての人を救いたいので、私たちにとって一番良いと思うことを、引き出していかれるのだと思う。

イエスの弟子になる

2014.09.04

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ルカによる福音5章1-11節

今日の福音から人がイエスの弟子になっていくプロセスが浮かび上がってくる。
イエスの弟子になっていくというのは、ふさわしい時があるようである。
それは落ち込みの時、闇の中にあるとき。一晩中漁をしても、何も取れなかった
翌朝のシモンの心境もそうである。少し肩を落とし、何もかからなかった網を
洗っていた漁師たちの姿をイエスはしっかりと見ておられた。
今がその時だとでもいうかのように彼らに声をかけられた。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」

イエスの弟子になる次のプロセスは、その呼びかけに従ってみることが必要と
される。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
その通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったとある。
暗く沈んでいただけに、その無償の恵みがどれほどありがたく、畏れ多かった
ことか。

ここで、次のプロセスがある。内的変化、自分の罪の自覚に伴う回心である。
「私から離れてください。私は罪深いものなのです」
思わず口をついて出た言葉だった。

そんなシモンにイエスはとどめの言葉をかけられたと思う。
「私についてきなさい」と。

闇の体験、呼びかけ、従順する姿勢、無償の恵みの体験、回心という段階を
経てイエスの弟子になっていく。それからの3年間が弟子たちの本格的な
学びだったと思う。
神の子となるためには、“まず勉強”という風潮がある。
しかしながら、まずは受け入れられた、恵みを受けた、ゆるされたという
体験があって、それから学びに入っていく。
これが今求められている福音宣教なのかもしれない。

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