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カトリック教会の社会教説をやさしく学ぼう |
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ヨハネ・マルシリオ神父(S.D.B.) |
今年一年、ヨハネ・マルシリオ神父様(サレジオ会司祭)が「カトリック教会の社会教説」をやさしくひも解いてくださいます。神父様は50年前に来日され、現在は下井草教会で司牧活動をされながら、日本の教会のために多方面にわたって活躍されています。
一見難しく、なかなか馴染みにくい社会教説。神父様に解説して頂くことによって教会の教えに対する関心が高まり、学びを深める手掛かりとなるのではないかと思います。どうぞ、ご期待ください。 |
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[3] 教会の社会教説から「真理とは」
「教会の社会教説は、人間に相応しい社会づくりへと導く・・・基本的な価値を示している・・その価値とは真理、自由、正義、愛である。これらを実行することは、人間個人の完全性と、より人間らしい社会生活を得るために必須で確実な手段である」(教会の社会教説要綱197条)。
今回は「真理」と言う基本的な価値について教会の考え方を短く紹介します。最近の教会文書の中にも「真理」と言う徳が頻繁に取り扱われています。例えば、ヨハネ23世の「マーテル・エト・マジストラ」(5月15日1961年)の中で「真理」とは社会生活を築く一つの柱とされています。ヨハネ・パウロ2世は「真理の輝き」(8月6日1993年)、ベネディクト16世は「真理における愛」(6月29日2009年)と言う回勅で「真理」の実行の大切さを強調しています。教会文書の中で、あるテーマが頻繁に取り扱われる時には十分にそれが理解されていないか、実行において欠けたところがあるということを意味します。
さて真理とは何でしょうか。カトリック教会のカテキズム(2465〜2491条)にその答えがありますので、その中からいくつか引用をさせていただきます。
「真理のうちに生きる」「真理をあかしする」「人間は本来真理に向かって歩むようにつくられている。皆は真理を敬い、あかしする義務がある」「神はすべての真理の本源である。神はことばであり、そのことばは真理である」「イエス・キリストは世の光(ヨハネ1,1−5)であり、真理である(ヨハネ14,6)、そして真理を無条件に愛することを弟子たちに教えるために「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい(マタイ5,37)と諭された」。やはり神・イエスのことば(聖書)を知ることは正しい社会生活を送るために、何と大切であるかをこの言葉からも理解できるのではないでしょうか。
「人間の行いが言葉の正しさと言う意味の真理は、真実、誠実、あるいは正直と言う言葉で言い表している。真理あるいは真実とは、行動するときには真理を表し、語るときには真実を口にし、陰ひなたや、見せかけ、偽善などを行わない強さのことである」。
「人間は相互の信頼なしには、つまり互いの真実を示し合わなければ、ともに生活することはできない」。
イエス・キリストはピラトから尋問されたときにこのように言われました「私は真理についてあかしするためにこの世に生まれた」、しかしピラトはそれに「真理とは何か」と言う言葉で返しました(ヨハネ18,37−38)。私たちの世界でも真理とは一つのクイズのようなものではないでしょう。カトリック教会は真理に反することをカトリック要理の中で次のように書いています。それは嘘、偽証、人の名誉をことばと態度で傷つけること、根拠のないことを言いふらすこと、真実でないことを告げる(軽率な判断、悪口、中傷)、皮肉、職業上の秘密を打ち明けるなどです。キリストの名前を名乗る私たちの事業には真理に反することがあってはならないでしょう。
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