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[10] 「政治共同体」「国の指導者」
日本語の辞書で「政治」という単語を探すと、驚くほど多くのことばに出会います。すなわち、政治運動、政治家、政治家の汚職、政治家の納税逃れ、政治改革、政治活動、政治形態、政治結社、政治献金、政治工作、政治資金、政治団体、政治倫理、政党など。ここに取り扱う「政治共同体」とは、一つの国の市民を司る正当に選ばれたグループを意味します。いわゆる市民の自由な投票で選ばれ、その納税に支えられて一つの国の公益を配慮する人たちのことです。「教会の社会教説綱要」の8章には「政治共同体」というテーマが比較的長く取り扱われ、あらゆる観点から省察されています:@聖書の視点、A政治共同体の基盤と目的、B政治権力、C民主主義体制、D市民社会に奉仕する政治共同体、E国家と宗教共同体。この目次を見るだけで、頭に浮かんでくる課題が多くあります。そこで、今回と次回の2回に分けて、この広い分野における課題から何かを抜粋して記事にしたいと思います。今回は新約聖書を引用しながら、イエスの政治権力についての考えを述べてみます。
イエスと政治権力(新約聖書の中にはこの点に関する多くの箇所があります。)
*イエスは権力主義的・専制的なやり方を拒否します。それは人間の人権を踏みにじるからです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10,42-44)
*イエスは自分が人の「守護者」だと自称する自惚れを拒絶します。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。」(ルカ22,25-26)。権力を授かった者は自惚れるために、いわゆる名誉を受けるために上に立つのではなく、それは、市民を通して神から授かった奉仕の使命を果たすためであります。
*イエスは当時の権力者に直接反対したわけではありません。イエスは地上の権力を絶対的なものと見なさないにしても、「皇帝のものは皇帝に、神のもの神に返しなさい」(マルコ12,17)と言うことによって、権力が神聖なものであり、正当なものであると認め、皇帝に納税することを不正であるとは考えていません。
*しかし「権力・権限」は神から授かったものであることを認める必要があると教えます。ピラトの前に立たされたときに、権限は神から授かったものであること、「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ」(ヨハネ19,11)と言います。
*イエスは自分が王であり、メシアであると認めますが、この世の諸民族を服従させる政治的な救世主であることを否定します。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄を見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』」と言いました。しかしイエスは断って「ただ主に仕えよ」と答えます。(マタイ4,8-11)
*イエスは弟子たちにもそれを教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と。(マルコ9,33-35)
政治共同体、ひいては指導者は、民に仕え、人間の人権、権利と義務を保障するのです。
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