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ミサについて

 

教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第20回(最終回)祝福と派遣
東京教区司祭 田中昇
2020/12/1 更新


神とのコミュニケーションである祝福

 ミサ聖祭の終盤、散会する前に、司式者である司教あるいは司祭は会衆に向かって、「派遣の祝福」をことばと十字架のしるしとともに与えます。祝福を受けた信者は、再び、自らの生活の場に戻っていくことになります。祭儀にあずかった人々は、聖体拝領で受けたキリストの御体を糧にして新たな生活へと祝福とともに送り出されていくのです。


 ところで、祝福は送る側と受け取る側の二者があって初めてその間で成立するものです。聖書に目を向ければ、祝福は、祝福する神と祝福される被造物との間で交わされていることがよく分かります。つまり祝福は、二者の間でやりとりされる一種のコミュニケーションであると言えます。創世記の初めに描かれている天地創造の場面で、神は最初の被造物である水の中で生きる魚類と天空を舞う鳥類を祝福されています(創1:20-22)。次いで、地上に生きる動物や家畜を創られます(創1:24)。そして最後に、私たち人類を創られました(創1:27)。しかし神は単にそれらを創造されただけではなく、創られたものを善しとして祝福しておられるのです(創1:22, 28)。神が被造物に与えられる祝福の目的は、「産めよ、増えよ、満ちよ」(創1:22, 28)という言葉に示されています。神が祝福を通してそれを受け取る側に願っていることは、「繁栄」であるということです。創られたものが豊かさを享受して栄え、途絶えることなく子々孫々までも末長く増えて行くようにとの神の切なる思いが祝福に込められているわけです。特に神がお選びになったアブラハム(創12:2-3)、その一族の後継であるイサク(創26:3-4)とヤコブ(創28:13以降)においては、数え切れない子孫でアブラハムの家が満たされることこそ祝福の結果であったことが顕著に伺えます。また、家が栄えて行くためには、人間が末永く生きていける環境に置かれているということは大変重要なことです。人間の生命維持に欠かせない家畜の増殖(上記の通り)、それと地から得る継続的な穀物の実り、つまり「豊穣」も同様です(レビ25:21; 申28:8)。従って、祝福にはこれから先に善なるものを希求し、明るく開かれた未来を志向する要素が強く現れてきます。


 このように、祝福することができる主体はあくまでも「神」であって、人間ではありません。ミサの中では司式者が参加している会衆に向かって「神が祝福を与えて下さいますように」と祈ります。それは、ミサを司式する司教や司祭にキリストの祭司としての権能が与えられているからです。このことは、民数記6章22-27節からはっきり分かるように、かつてユダヤの民の中において、民に「神の名を置くことによって」祝福を与える役目を祭司たちがその職権として担っていたことに関係しています。つまり、神はイスラエルの民に祝福を与えるとき、それを行う代理(仲介)を祭司アロンにゆだねていたのです。[ⅰ]もし教会におけるミサ聖祭で、司教あるいは司祭である司式者が神からの祝福を祈るのであれば、それは祝福を与える神とそれをいただく会衆との間の代理者・仲介者として彼らが立てられているからということに他なりません。


 以上の考察をふまえた上で、「派遣の祝福」をどのように理解したらよいでしょうか。一般謁見の場で[ⅱ]、教皇フランシスコが見事な見解を示してくれました。ミサ聖祭に参加した信者は皆、聖体によって「養われた者、豊かさをいただいた者、栄えにあずかった者」として、得たものを生活の場で表すように招かれています。彼らは司式者の祝福によって自分たちの生活の場である家庭、職場、学校に送り出されていきます。そこで、彼らは遣わされる場で「豊かさ」と「栄え」を福音宣教によって多くの人々に証しながら伝えて行く「使命」(Missio)を果たすわけです。復活され天に昇って行ったキリストも、後に全世界に宣教に出かけていく弟子たちを、手を上げて祝福されました(ルカ24:50-51)。それゆえ教会は、ミサの最後に、頂いた恵みを伝えるように、宣教に専心するようにと、貴い使命を受け、それぞれの生活の場に派遣されていく信者を祝福するのです。


新たなる派遣

 古代世界では、慣習的に、儀礼的な散会をもって集会を締めくくっていました。初期キリスト信者たちは、同じような終え方を彼らの典礼的な集会に取り入れる必要性を感じました。そこで四世紀以降、その役割を果たすために、Ite, Missa est(イーテ、ミッサ エスト)というラテン語の言い回しが今日まで使われてきました。これは、字義的には「(あなたがたは)行きなさい!解散です!(あなたがたは)派遣されました!」という意味で、それが新しい英語のミサの翻訳では、「行きなさい、ミサは終わりました」[ⅲ]と訳されています。


 この散会について最も重要なことは、この典礼全体がこの最後の一行にあるMissa(「解散」/「派遣」)ということばから「ミサ」と名付けられているということです。このことは、いかにミサが究極的には「外に向かって送り出すこと」として理解されるべきか示しています。それは『カテキズム』が説明しているように、聖体祭儀が「ミサ聖祭」(“Missa”、英語では“Holy Mass”)と呼ばれるのは、「救いの神秘の実現である典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすようにと願う信者の派遣(missio)で終了するから」[ⅳ]

です。


福音宣教の源泉であるミサの体験遣

 イエスは、使徒たちに語りました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハ20:21)と。御父は、御子が私たちの罪のために死んで、その神の命に私たちをあずからせるため、彼を世にお遣わしになりました。私たちが見てきたように、イエスの受難と死そして復活という過越の神秘全体が、聖体祭儀という典礼の中で私たちに現わされました。それはまさに「天の国の体験」だったのです。それで、私たちはイエスの生涯とその使命、その神秘により深く結ばれることができるのです。私たちが聖体祭儀によってイエスにより深く結ばれれば結ばれるほど、私たちを取り巻く世界の中で、私たちはイエスの命と愛、平和と喜びをより一層広げて行くことになります。逆に、もしミサでの神秘の体験が薄っぺらいものであれば、私たちの信仰生活はいかにも乾いたものになってしまうのです。何ら聖性さを感じない、世俗的で適当な体験からでは実のところ宣教の力など湧いては来ないのです。このようにミサにおける「天の国の体験」という感覚は、まさに信仰生活の根幹となるもので、それをどう感じることができているかという問題は教会そのものの質を決める上で非常に大きいのです。


 こうして、典礼の最後の言葉によって、私たちは目的なく散会させられるのではないことが分かります。それは、使命を伴う散会なのです。それは、キリストの諸神秘を世界にもたらすために、世に真の命に与らせるために、主が神の民を派遣するということを意味しているのです。このように「教会は、その本性から宣教的であり、福音宣教の業は神の民の基本的な義務とみなされるべきもの」[ⅴ]

なのです。


 ミサを祝った私たちは、「それぞれ自分の家に帰って行きます。私たちはともに光を浴びて嬉しかったのです。大いに喜び、大いに楽しみました。今、互いに別れて去って行きますが、主から離れることがないようにしましょう。」[ⅵ]


 聖霊の交わりの中でキリストの愛の秘跡にあずかった信仰者は、聖堂を出て以前と何ら変わらぬ生活に戻っていくのではなく、この世にあってこの世の者とは異なる聖なる生き方において、より積極的に福音を証するため、つまり信仰の神秘の体験を胸に世を福音化するために派遣されていくのです。
「行きましょう。主の平和のうちに。」


おわりに

 これまでミサにおける言葉と所作の意味を解説してきましたが、この分かち合いが、信徒、修道者、聖職者の皆さんにとって益するものであれば幸いです。みなさんが、信仰の根幹となるミサ聖祭の理解を深めることで心を込めてこれを祝い、その恩恵に適確に与ることができるよう祈ります。なぜなら私たちの信仰生活、宣教の本質的な力は、そこからもたらされるからです。


 なおこれまでの一連の説明は多くの文献に依拠していますが、中でもアメリカのカトリック信徒の聖書学者、エドワード・スリ博士の著書A Biblical Walk Through the Mass: Understanding What We Say and Do in the Liturgy (2011年、Ascension press)のアイデアに基づいています。それゆえこの連載を通して、さらに学びを深めたいと思われた方には、このスリ博士の著作を元に日本のカトリック信者向けに私が湯浅俊治神父様と共に書き改めた『ミサ聖祭 聖書にもとづくことばと所作の意味』という本をフリープレス社より刊行していますのでそちらを参考にして頂けたら幸いです。


これまでの連載記事の掲載、また上記の解説書の刊行にあたって、版権交渉に応じて頂いたAscension press社の担当者および出版計画を快諾して頂いたスリ博士のご好意にこの場を借りて感謝申し上げます。



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1 [モーセは神から告げられて、神のメッセージをアロンに伝えています。それは、アロンが神とイスラエルの民の間の仲介者(代理者)となって、彼が神の祝福を民に与えるという内容です。それゆえ、神の民への祝福は、「祭司による祝福」と言われます。[back→]
2 教皇フランシスコは、2018年の一般謁見において「ミサを味わう」というテーマで連続講話を行っていましたが、2018年4月4日がその一連の講話の最後で、キリスト者として信仰を証しすることの重要性を強調されました。[back→]
3 “Go forth, the Mass is ended.” [back→]
4『カテキズム』1332項。 [back→]
5 第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2項および教会法第781条を参照。 [back→]
6アウグスティヌス『ヨハネ福音書注解』(35, 8-9; CCL 36, 32-323)。 [back→]