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第22回 受け継がれていくドンボスコの教育法
イエスのカリタス修道女会 シスター井口みはる |
2015/1/12更新 |
みなさん、こんにちは。
日本でも1年間かけて行われていた生誕200周年記念は、2015年11月23日(月)のカトリック東京カテドラル関口教会での“ドン・ボスコ生誕200周年の閉幕イベント&ミサ”をもってすべて終わりました。
ドン・ボスコ生誕200周年記念を迎える準備として始めたこの連載も今回で最後にしたいと思います。
さて、ヴァルドッコで始まったドン・ボスコの活動はイタリアだけに留まりませんでした。1875年には、南アメリカのアルゼンチンに初めて宣教師を派遣するほどになっていました。南アメリカでのサレジオ会の事業も急速に発展。わずか10年でいくつもの学校が設立されました。しかし、事業が急成長しているとき、人材の養成が間に合わず、人材不足という問題が起こります。それは遠く離れた南アメリカだけの問題ではなく、ドン・ボスコの近くにいる会員たちでさえも彼のやり方を理解せず、あまりよく習得できずにいる会員もいました。500人を超えるまでに増加した会員すべてに、ドン・ボス子の思いが、かつてのように心から心に伝わらなくなってしまうのは残念なことですが、現実のことでした。オラトリオは必然的に以前の活気を失っていきます
彼は修道会の創立者として将来を心配し、初期のころの精神、ヴァルドッコのオラトリオでの生活、つまり“ヴァルドッコの精神”を、会員たちに植えつけなければなりませんでした。そうすることが未来への保障だったのです。
しかも彼の晩年は、多くの時間をローマのみ心の大聖堂建築のために使かなければなりませんでした。寄付を集めるための旅行や他のことのために、ドン・ボスコの本来の仕事であったはずの少年たちのそばにいることやサレジオ会員たちを直接導くことができない状況でした。そんな中『愛するこどもたち』あてに手紙を書きます。
それは1884年5月いくつかの重要な用事のためにローマに長期滞在中だったドン・ボスコが、トリノのオラトリオに宛て、口述筆記の形で書かれました。その手紙の中で、ドン・ボスコが見た夢が語られます。1870年ごろオラトリオにいた二人の少年が登場し、昔のオラトリオと現在のオラトリオの様子を見て、なぜそのようになってしまったのかその少年たちとドン・ボスコが話しているものです。
「昔オラトリアでは、神父様はいつも若者たちと一緒だったではありませんか。特に休み時間には。あの良い時代を覚えておいでですか。天国の喜びのようでした。・・・わたしたちの規則は愛でした。・・・」
「たしかにそうだ。あのころ、わたしにとっては全てが喜びであり、若者たちは、私の姿を見ると押し寄せたり、話しかけたりして、わたしからは直接よいすすめを聞いて実行に移そうと、みんな懸命だったものだ。しかし今は、わたしを訪ねる人が多く、用事も増えて、体の調子も思わしくないので、あの頃のようにはできないことがわかるだろう。」
「そうでしょう。でも、神父様がおできにならなくなったのなら、なぜ、あなたのサレジオ会員たちが、神父様の手本にならわないのですか。彼らに、神父様がなさっていたように子どもたちとかかわりなさいと、なぜ要求なさらないのですか?」。
「わたしはそうするように言い聞かせている。声がかれるほど繰り返しているのだ。・・・」
(『こころの教育者ドン・ボスコの「ローマからの手紙」』ドン・ボスコ社より)
この手紙はドン・ボスコの晩年の気持ちをよく表わしています。ドン・ボスコは、オラトリの問題に気づいており、問題を解決しようと訴えています。そして、改めてドン・ボスコの夢はどのようなものだったのか、若者を教育するために何が大切なのかが書かれています。何よりも、トリノに残してきている少年たちに対する愛があふれています。ドン・ボスコは、手紙を書くことによって自分はそばにいることはできないが、心はいつも君たちのことを思っているということを示したのでした。
1888年1月31日ドン・ボスコは亡くなります。72歳の生涯でした。しかしドン・ボスコの夢は続いています。彼の意志を継ぐ多くの人々によって。
この連載の初めに、私はこう書きました。ドン・ボスコは教育者として活動している人たちだけのものでしょうか、と。わたしはこの答えは次の手紙の中にあると思っています。
1885年8月6日南アメリカで宣教師として働いているカリエロ司教様にあてた手紙です。先に書いたように、南アメリカでは予防法がよく理解されないまま実行されており、問題が起こっているときにドン・ボスコが書いた手紙です。
『・・・すべてにおいて愛、忍耐、親切を!人を辱めるような叱り方を避け、罰を避けなさい!出来るだけすべての人に善を行い、どんな人にも悪を行わないこと。』と書き、さらに、
『このことはまず、サレジオ会員同士で、そして、生徒に対しても、内外のあらゆる人に対しても実行すべきです。・・・』
つまりドン・ボスコがいう“予防法”は教育者がその対象者に対してだけにするものではなく、まずお互いに実行しあいなさいというものです。そうです。予防法はドン・ボスコを父と仰ぐすべての人の生き方の基本となるものです。
どのように生きていくのか。それは2016年を生きる私たちへのドン・ボスコからの課題です。ドン・ボスコは、きっとこのように言うと思うのです。
「わたしは、1800年代のトリノの若者たちを見て彼らとともに生きようと思い活動を始め、生きてきました。2016年の今、あなたは、あなたのいるところで、あなたの助けを必要としている目の前の人のために予防法を使って、生きてください。」
この連載を始めた時、いつ終わらせるかということをはっきりとは決めていませんでした。もちろん生誕200周年記念を迎える準備として始めたので、記念の年つまり2015年が始まる前に終わるという選択肢もあったかもしれません。でも私は2016年のドン・ボスコのお祝いの月までと決めていました。(ドン・ボスコが亡くなった1月31日教会ではドン・ボスコをお祝いする)それは自分の中に、ドン・ボスコの夢が200周年のイベントで終わってしまわないようにという気持ちがあったからかもしれません。
これまで読んで下さった皆様に感謝します。連載は終わりますがこれからも一緒にドン・ボスコの夢を追い続けていきましょう。
VIVA DON BOSCO!!
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