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2015/4/24


たかが誓願、されど誓願
結婚した人に聞いてみる。「どうして、この人と結婚したの?」、「成り行きで」、「他に選択肢がなかったの」、「悪くないと思ったから・・・」などと返事が返ってくる。というのはよくある話です。人が一生の選択をするときに、「たかが結婚、されど結婚」とはいえ、ジレンマと価値を天秤にかけること、そして導きを信じるということが必ずあると思います。シスターになる・・・確かに私の場合もこの三つの事、つまりジレンマと天秤と導きへの信頼が絡んでいたように思います。しかし、決定的なことは「私が選んだ」という思いよりも「神様が私を招きいれた」あるいは「呼んで下さった」という確信です。


恵みが先?意志が先?
人、それぞれシスターになった経緯は様々でしょう。大げさかもしれませんが、召命の神秘は教会2000年の歴史に刻まれた「恩恵と自由意志」を巡る論争にも匹敵するほど難しく、理解し難いものです。ちょっと難しい話になって恐縮ですが、この論争は、412年から18年間も続いた論争で、アウグスチヌス対ペラギウス論争が最も有名です。そこで何が問題となったのかというと、人間の中に救いに至る力があるのか、どうかということです。単純に言うと、アウグスチヌスは「ない」と言い、ペラギウスは「ある」という。と言ってしまうと誤解されそうですが、それぞれ強調点が異なると言う話です。信仰者であればだれでも、この問題を神との親密な関係なしに語るのは不可能でしょう。召命についても同じです。神様だけが一方的に呼んでシスターになったのでもなく、自分がなりたかったからということだけでシスターになった人などいないはずです。そこには神様の呼びかけという見分不相応な恵みがあり、恐れ多くも自由意志をもって応えるという人間側の勇敢な行動があってはじめて実る修道召命なのです。

ともかく、私の場合、両親が偶然、カリタス会のシスターに出会ったことがきっかけで入会することになったのですが、本当の意味で修道者になること考えたのは、堅信の時でした。神様という存在が「イエス・キリスト」となり、人格的な存在として私を呼んでくださり、イエス様が生きたように人を愛すること、奉仕することをハンセン氏病の方から教えられたからでした。それはかなりショックな出来事でした。思春期の少女がその年齢らしくシスターになることを夢見たとしても、それだけでシスターになるまでには至らないと思います。かならず、このような人格的な呼びかけがあって「イエス・キリスト」という方に懸けるという選択に導かれる必要があると思います。


修道生活とやらは
ところで、修道生活には規則がつきものです。修道院には規定の制服に身を包んだ人たちが規則正しく生活している。これも間違いではありません。共同生活ですがから規律と時間割が存在することは当然です。しかしもっとも大切な点は、それが愛という目標によって貫かれていることです。人間は機械ではないのですから、いつも同じように生きることはできませんが、共同善と証のために自分を後回しにして他を優先すること、つまり愛のための選択が必要なのです。それはある種の縛り(それは結婚生活でも同じでしょう)です。でも愛する人のためなら何でもできると私は思います。

こうして生活する私たちの生活は、長年すればするほど それが捨てる生活、脱ぎ捨てる生活だと理解できるはずです。削られていく生活です。結婚した人が主人や妻のために自分を犠牲にして相手を生かす行為と似ています。自分のことは二の次になり、相手のために自分が本来したかったことなど、問題にならなくなる。そんな生活です。そして相手を生かすこと、それがいつの間にか自分が生かされていることだと気づくのです。自己実現のために修道院に入る人はいません。修道者になったのなら、イエス様のように自分を人のために自分を投げ出す覚悟で生涯、奉献の道を歩みます。人々を救うために、いつの間にか十字架の上にまで導かれることになったイエス様のように。


恩恵と自由の中で
シスターになりたいと思った動機はそれぞれでしょう。しかし共通する点はイエス・キリストが名指しで呼ばれたからです。愛する人が呼ぶのですから応えないわけにはいきません。愛するのに理由はありませんから、これは「恵み」です。
実は召命をめぐって、自由と恩恵の攻防は私たちの修道者一人ひとりの中で、今も繰り広げられています。しかしこれはやはり、神秘です。恵みを受け、それに自由意思で応えるという「生きる」プロセスの中でしか語れない道です。この自由意思がより神様のみ心にかなうように恵みに気づき、愛されていることの確信を日々深めたいものです。この深まりの中から、召命は本来生きられるものだと思います。