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ミサについて

   

教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



神の国の体験としてのミサ
東京教区司祭 田中昇
2019/10/16 更新


 

 教皇ヨハネ・パウロ2世は、「ミサとは地上の天国」であると語りました(1996年11月3日のお告げの祈りの言葉)。つまり私たちが祝うミサとは、それがいくら天上的なものとは感じられないような時でさえも、それは単なる概念やイメージではなく現実としての天上の祭儀への神秘的な参加だといえます(『典礼憲章』8項)。その証拠に、司式司祭はミサのクライマックスにおいて、黙示録の天上の宴で天使によって宣言される言葉「子羊の婚宴に招かれた者は幸い」(黙19:9)を私達の教会の中で宣言します。この黙示録のメッセージからも、ミサとは復活した主との天上での出会い、花婿キリストの花嫁として共に神の国たる婚宴に入る人々の喜びの集い、神の聖所、天のエルサレムに入って行きそこに到達したことを現実に喜び祝うものであることは間違いありません。それゆえミサに行くこと、ミサに参加することは、天のエルサレム、黄金の広場へ私達が入っていくこと、御父との出会いのために教会が飛翔していくことだと言えるのです(黙示録21,22章参照)。そもそも奉献文と訳される言葉「アナフォラ」(ギリシア語)は、「上昇」、「上に揚げられること」を意味します。その言葉からもミサは、御父が御子と共にいる所、至聖所へ私達が昇っていく動き、上昇、神へ開かれた新たな道、永遠に開かれたいつくしみの神の玉座、新たな世界、御国への入場と言えます。ミサの中で私達は、地上にいながらも終わりの日に先立ってこの世にあって新たに作り変えられる体験をするのです。確かに、天上の天使の群れは主の玉座において絶え間なく「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな・・・・・・」(イザ6:3; 黙4:8)と万軍の主を讃えて歌っているのであって、私たちはミサのとき主の御使い達と共に主の婚宴の歌を歌うように招かれているのです。それがまさに奉献文の叙唱の終わりで、司式司祭が「私たちも、全ての天使、聖人と共に、賛美の歌を捧げます」と宣言することの真意です。これはまさに天国の体験です。


新しい契約のいけにえ
ミサは、しばしば「聖なるいけにえ」と呼ばれます。つまり、十字架上の死によってご自分の命を御父への完全な捧げ物としてご自身を捧げて世を贖われた神の子、イエス・キリストのいけにえなのです。ミサとは、単に十字架上のイエスの死を思い出させるものではなく、あるいはそれを象徴しているものでもありません。ミサは、秘跡的にカルワリオ(ゴルゴタ)の丘で私たち一人ひとりの為に捧げられたキリストの贖いのいけにえを今ここに現存させるものであり、それゆえその救いの力が私たちの生命にも十全に及ぶものなのです。新約聖書は、イエスが私たちの罪のためにゴルゴタの丘でいけにえとなった過越の小羊だと啓示しています(1コリ5:7-8; 1ペト1:19; 黙5:6参照)。しかしながら、ユダヤ教の他のいけにえの儀式と同様に、過越祭において彼らは動物を殺すだけでは不十分でした。いけにえとして捧げられた小羊を食べることは、過越祭の祝いの不可欠な構成要素でした(出12:8-12参照)。いけにえを捧げた後に、交わり(共同体)の食事(communion meal)が続きました。それは、契約を締結したことを表わし、その参与者たちと神との間の交わり(communion)を作り上げる分かち合いの食事だったのです。それゆえ私達は、最後の晩餐で命じられたとおり世の罪の贖いの源である神の子羊を分かち合うという神の絶大な愛を「記念する」たびに、主が与えられたゆるしと愛の恵みを私たちが十全に生きるための「新しい契約」を絶えることなく継続するのです。


キリストの現存としての聖体
イエスは様々なかたちで ―― 貧しい人々のうちに、みことばのうちに、諸秘跡のうちに、そして彼の名によって集められた2人あるいはそれ以上の人たちの祈りのうちに ―― ご自分を信じる者と共にいて下さいますが、イエスは聖体のうちに比類のないあり方で現存しておられます。イエスの聖書的呼称のひとつに「インマヌエル」があります。これは「神は我々と共におられる」(マタ1:23)という意味です。イエスは神の御一人子であり、私たちのうちに共に住まわれるために人となられ(肉となられ)たのです。イエスは、私たちのそばに留まることを望まれたがゆえに、聖体のうちに秘跡的な仕方で現存し続けるという賜物を私たちに与えて下さいました。それゆえ私たちは、ミサ以外のときも教会や聖体礼拝堂で聖体のうちにおられるイエスと共に時間を過ごすよう努めるべきなのです。イエスは、私たちがご自身に近づくことを望まれ、ご自身がまさに2000年前に神の民のためになさったのと同じように、私たちの生活の中で救いの御業を今も行いたいと思っておられるのです。そのために私たちの側が、共に居てくださるイエスと共に居るようにしなくてはなりません。わたし達は表面的に聖体を頂いたり礼拝したりするだけでなく、いつも深い信頼のうちにイエスに向かって行かなくてはなりません。


聖なる交わり
パウロは、第1コリント書の10章で、キリストの御体を食べ、御血を飲むことによって築きあげられる深い一致について述べています。「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかること(communio)ではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかること(communio)ではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。(それは、私たち)皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(1コリ10:16-17)
 カテキズムは次のように教えています。「感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(communio)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、私たちのために命を捧げられたキリストご自身をいただくことです。」(1382項)実際に、聖体拝領は、私たちが神とともに持つことのできるこの世での最も深い一致です。そしてその一致は同じパンを分かち合った教会共同体の一致でもあるのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世の洞察は、聖体拝領後のこの瞬間に私たちは9ヵ月の間、自らの胎に神であり人である方を宿したマリアのようになることを示しています。私たちが私たちの主の御体と御血をいただくとき、程度の差こそあれ、マリアに起こったことが私たちのうちにもこの秘跡によって起こるのです。 つまり私たちは聖母のように神であり人である方の現存を自らに宿す生ける聖櫃、神殿となるわけです。


教会の生命の源、宣教の力の源泉であるミサ
私たちは聖体を主日毎に頂くことによって、キリストの十字架に結ばれることで自分の弱さと罪に打ち勝ち、自らが決意する新しい命に生きるように導かれ、試練や苦しみに遭うときには支えられ、また私たちが共同体的一致を深め、聖性のうちに成長できるように助けていただけるのです。まさに私たちは、聖体となられたキリストの愛、御体と御血によって養われ、私たちの内に住まわれるキリストの命によって、徐々に変えられていきます。私たち一人一人は、また私たち信じる者の集いである教会そのものが、まさに自らが食べているもの、キリストになっていくのです。 こうして主を信じる者によって、つまりキリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛することができる者によって、真に福音宣教というキリストの業が継続されていくのです。ミサ聖祭はまさにその源泉であり頂点なのです。


次回から、ミサの開祭の儀のお話になります。その第一回目は十字架のしるしの意味について考えます。