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教えて!シスター
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2015/9/24 |
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修道院に入ると家族とは絶縁?というのは昔の時代の話であって、今はそんなことはありません。しかし、ある意味でそうだとも、言わなければならないかもしれません。
「捨ててこそ得る」。仏教の教えのようですが、キリスト教も実は逆説の真理が満載の宗教だと思います。旧約聖書ではアブラハム、自分の故郷を捨てて出発しなさいと言われ、故郷ハランを出発したからこそ、彼はイスラエルのおびただしい子孫を生み出す太祖となります。そしてイエス、あの残酷な十字架の死という人間的に見れば、完全に失敗の人生が全人類を救う救済の業となったのです。神様のなさることはいつも逆説的で私たちには推し量れないほどの深い真理が秘められています。修道者にとっての家族との関係もそんな深い真理に基づく側面があるかもしれません。
召命が実現するためには3つの原則があります。招く方(神様)、応える人(私)そしてそれに協力する人です。この3番目の人は第一に家族、友人などが挙げられるでしょう。そうなのです。家族が一番の協力者なのです。しかし、一番最初に切られる存在でもあります。「切られる」という表現はちょっと冷たい感じがしますが、何かを獲得するためには、一番大切なものをあきらめるという自然の法則を意味します。「切る」というのはある種のイメージで、親の思い(一人前の結婚をしてほしい等)を振り切って、神様のもとに行くということです。そこになにがしかの「切る」的な要素があるかもしれません。
脳科学的にみても、何かを獲得するために、他のものを捨てるという選択が目的達成のための機動力を高めるという話を聞いたことがあります。その意味で捨てることのできる人は生産的な人なのだそうです。
このように書くと、家族との関係が何か絶望的に聞こえるかもしれませんが、実際はそんなことはありません。実際問題、家族と縁を切るわけではありません。ちなみに修道者はいつまでも両親の戸籍に入ったままです。シスターになるまでの数年間は基本的に連絡を取らずに修練に集中する期間がありますが、それ以外は連絡をしっかり取り続けています。両親が病気だといえば、可能な範囲で駆けつけて介抱しますし、両親が亡くなると最後まで家の整理とか書類の問題を解決するのは大概、修道者の娘の仕事でしょう。日ごろちょくちょく家にはもどれないにしても、決定的な時、本当に必要な時には、修道会は寛大な配慮をするのにやぶさかではないのです。それは家族が召命の第一の恩人だからです。
ある宣教女の母親の話です。その娘は貧しい国で子供たちのために働いています。あるときこんな手紙が私のもとに届きました。「一人娘を遠くに送ったからか、代わりに神様は娘のような若い人をたくさん私のもとに送ってくれています。教会の子供たち、ボランティアの仲間、そして最後にはお隣に引越ししてきた同じカリタス会のシスターの妹さんです。」この母親は捨ててこそ、多くのものを得たのだと思います。この手紙を読みながら、お母様の寂しさとうれしさが混在した深い信仰に感動しました。
またある司祭の母親は息子の叙階のときにこのように書きました。「神様、これまで息子を育てさせていただいてありがとうございました。今、あなたのもとにお返しします」と。彼女は熱心な仏教徒でした。
修道召命、実は本人はもとより、家族こそがその深い召命の恵みを生きているのではないかと思います。神様が本当にこの「召命のために」お呼びになったのは、修道者になるための私よりも、それを陰で支える家族一人ひとりなのではないかと思います。
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