エントリー

父なる神と、子であるイエス

ファイル 36-1.jpg
ヨハネによる福音 5章17-30節

カトリック教会では今、キリストの死と受難を黙想する
四旬節という季節を送っている。
今日の福音を読むと、なぜイエスが死に渡されるように
なっていったかがわかる。
当時のユダヤ人にとって、安息日に働くことは断じて
禁じられていた。
しかしイエスは、ご自分のもとに癒しを求めに来る人達を
安息日だからといって、放っておくようなことはなさらなかった。

一方、ユダヤ人にとって神は唯一であり、
自分は神の子であるとのイエスの主張は
彼らにとって冒涜以外の何ものでもなかった。
「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと
ねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、
神をご自分の父と呼んで、ご自身を神と等しいものとされた
からである。」とある。

今日の福音には、父なる神と、子であるイエスのきずなの深さが
書かれている。イエスは言う。
「わたしは自分では何も出きない。…わたしは自分の意志ではなく、
わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

イエスでさえ、自分勝手に行動されなかったのだ。
祈りのうちに、すべて父なる神に相談して事を行われた。
それならなおさら、わたしたちはそうあらなければならない。
自分の力だけで、神のみ旨を知ることなんてできない。
それはかなり自分よがりのものになりやすい。
神のみ旨と言いながら、自分のみ旨を追及していることが多い。

イエスの模範を見ることによってのみ、知ることができる。
イエスはこのような時、どう行動しただろうか…。
イエスだったら、こんな時、何と言うだろうか…と。

ページ移動



ユーティリティ

2024年05月

- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

カテゴリー

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

リンク

新着画像

過去ログ

Feed