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カテゴリー「今日の福音」の検索結果は以下のとおりです。

イエス、口の利けない人を癒す

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マタイによる福音9章2-38節

今日の福音の中でイエスは悪霊に取りつかれて
口の利けない人を癒された。
いつの時代も、善を悪に解釈し、
何につけても非難する人々がいるものだ。
当時の権威者たちはイエスの行いを見て、
「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」
と言った。イエスはそれに対して何の反論もしない。
弱い人が責められると、必ず反論し、弁護するのに。
「なぜ、心によくない考えを抱くのか」と。
しかし自分を守ろうとはしない。それどころか、
町や村を回って、ありとあらゆる病気や患いを
癒しつづけたことが書かれている。

人はとかく、自分の立場を守ることに必死になる。
イエスの弱い立場の人に対する思いやりと正義感、
自分の損得を顧みない潔さを育むことができますように。

「あなたの敵を愛しなさい」

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マタイ5章43-48節

父なる神の寛大さは計り知れない。
その寛大さによって私たちは皆 赦されている。
だから、子である私たちも それに似た者と
なるよう招かれている。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも
雨を降らせてくださるからである。」

自分を愛してくれる人を愛するのは易しい。
イエスの教える愛は 分け隔てのない愛。
天の国に帰るまでの永遠の課題だと言える。

旧い契約から新しい契約へ

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使徒パウロのコリントの教会への手紙3章4-11節
マタイによる福音5章17-19節

今日の聖書のみことばは、神に選ばれた民
イスラエルの成長の過程を垣間見せる。
旧約と新約の違いとでも言えようか。

旧約、つまりモーセがシナイ山で受けた
石に刻まれた十戒は、「~しなければならない」
「~してはならない」という神の民として守るべき10の掟で、
よちよち歩きの子どもにひとつひとつ教え諭すしつけにも似ている。

子どもは成長していくと、叱られることへの恐れよりも、
心に刻まれた良心の声に従って歩むようになる。
自分を愛してくれる人を喜ばせるために、
善を行い、悪を避けるようになっていく。

イスラエルの民も自分たちのために命を懸けてくださった
イエスの愛の証しにより、書かれた文字に頼るよりも、
聖霊によって示される愛の掟を実行するようになっていく。
「文字は殺しますが、霊は生かします」
確かに掟は人を裁くが、聖霊は神の望みを悟らせる。

イエスは言われた。わたしが来たのは律法を
「廃止するためではなく、完成させるため」であると。
律法ずくめになっていた当時のユダヤ人たちに、
愛による新しい掟を自らの言葉と行いによって示した。

人は自分が本当に愛されたと確信すると、
言われた以上のことをする豊かさを持つ。
義務だけにとどまらない。掟だけに甘んじない。
愛は発明を生み、愛は工夫を生みだす。
愛は報いを求めるどころか、無償で与える。
それがイエスの言う律法の完成なのかもしれない。

エリコの盲人

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第一朗読 シラ書42章15-25節
福音書 マルコによる福音10章46-52

今日の福音はイエスがエリコという町で
一人の盲人をいやす出来事である。
「ダビデの子イエスよー、わたしを憐れんでくださーい!」と
なにふりかまわず声の限りに叫んだ。
自分の街を今度いつこの方が通るかわからない、
いや、これが最後かもしれない…。
イエスは雑踏の中からこの叫び声を拾い、足をとめた。
「あの男を呼んで来なさい」

イエスはこの男に二つの光を与えた。
一つはこの地上のものを見る光。
そしてもう一つはいのちの光。
イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った」
イエスはこの人の信仰の目をも開かれたのだ。
もし視力を得ただけであれば、うれしさのあまり
飛ぶようにして消え去ったであろう。
しかしこの人は「なお道を進まれるイエスに従った」のだった。
この人についていけば、本当の幸せを手に入れることができると
確信したのかもしれない。
尽きることのない喜びを得られると確信したのかもしれない。

イエスの尺度

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マルコによる福音9章38-40

カトリック教会は聖霊降臨の祭日をもって復活節が閉じられ、
「年間」といわれる通常の典礼に戻る。
イエスの3年間の公生活について黙想していくことになる。

今日の福音はイエスの心の広さを垣間見させる。
「私たちに従わないのでやめさせようとしました」という弟子に、
「やめさせてはならない」といましめるイエス。
人は普通自分の思い通りにならなかったり、
自分の狭い尺度で人を裁く傾向がある。
そんな私たちにイエスは、とにかく相手のよいところを認め
その人の善意を尊重することを求めておられるのかもしれない。
さすがにイエスの尺度は大きい。
その心の広さに少しでも近づけることを祈り求めたい。

牧者としての資格

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ヨハネによる福音12章15-19節

イエスは復活後、40日にわたってたびたび弟子たちに現れ、
復活を信じるかれらの信仰を強められた。

今日の福音には、イエスがペトロに教会の頭としての務めを
ゆだねるにあたってのことが書かれている。
頭としての条件は、どれぐらい管理能力があるかとか、
人格者であるかとか、そういうことではないことが分かる。
問われているのはただ、

「この人たち以上にわたしを愛しているか?」

ということだけだ。ペトロの答えは非常に心もとない。
「もちろんです」と答えるのではなく、
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
あなたがご存じです」…

謙虚というか、自信の無さが伝わってくる。
それもそのはず、「あなたのために命を捨てます」とまで
言いきったすぐ後に、イエスのことを「知らない」と
3度も裏切ったペトロである。

教会の最初のリーダーとして選ばれたのは、
この弱く頼りないシモン・ペトロだった。
教会の歴史の中で繰り返された過ちも、
このペトロに代表される人間の弱さの故である。

私たちは本当に弱い者の集まり。
けれども神のなさりかたはそうなのだ。
自分の力によって誇ることのないように、
自分を神とすることのないように、弱く貧しい者、
何度も倒れてしまうような人を選ばれる。

だから、ある意味安心できる。
教皇フランシスコが言われたように、
神はゆるし疲れることがない。
私たちの弱さをすべてご存じの上で、
わたしたちを愛し、受け入れてくださるのだ。
だから私も、このイエスに倣い、
限りなくゆるせるようになる恵みを願おう

わたしと父はひとつである

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ヨハネによる福音14章6-14節

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
そうすれば満足できます。」
神を見てみたい… これは私たち人間の奥底にある
永遠の望みではないだろうか。

こう尋ねた弟子フィリッポにイエスは答える。
「わたしを見た者は、父を見たのだ」

人間の知恵では理解しがたいこの神秘を、
私たちキリスト者は信仰のうちに受け入れている。
イエスが、見えない神のかたどりであること、
イエスが人となってこの世に来たのは、
人類に対する神の計り知れない愛を表すためだった。
貧しい人、病める人、疎外されている人たちの友となった。

友のために自分の命を捨てるほど大きな愛はない…
イエスは生前の教えを身をもって証した。
イエスのこの世における約30年の生涯の中に、
わたしたちを世の初めから見守り愛し続けておられる
神の親心が凝縮されている。

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、
わたしが言うのを信じなさい。」

この神秘をより深く悟らせて下さいますように…

わたしたちは誰のところに行きましょう・・・

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「わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲まなければ、
あなた方のうちに命はない」

このイエスのあまりにもストレートな言葉に、
「誰がこんな話を聞いていられようか」と躓き、
多くの者がイエスのもとを去って行った。

それを受けてイエスは12弟子たちに問う。
「あなた方も離れていきたいか?」
ペトロは力強く答える。

「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。
 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます!」

これは、毎日のミサの中でご聖体をいただく前に唱える
なじみ深い言葉となった。
外国では通常、ルカ7章にある百人隊長が自分の部下を
癒してもらうためにイエスに向かって言ったあの言葉、
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕を
いやしてください。」にまつわる言葉が唱えられるのだが
日本のように八百万(やおよろず)の神を拝む文化の中では、
「誰のところでもなく、あなたのところに参ります」という
信仰告白が望ましいということで、このような祈りの文言に
なっていると以前聞いたことがある。

もちろんイエスは、文字どおりにご自分の血や肉を
食べさせることを意味してはいなかった。
しかしながら、人々のために十字架上で血を流し、
命を捧げることになる彼の生き方、つまり全人格を受け取ることなしには、
永遠の命を得ることはできないだろう。

永遠の命

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ヨハネによる福音6章35-40節

「永遠の命」を得るとは、何も長寿を通り越して
信じられないほど長生きをするということではない。
わたしたちが生まれ変わること、新しい命を得ること。
つまり、この世の時空を超えて永遠に存在される神を信じ
神と共に生きるようになることを意味するのだと思う。
神を自分の生活の中に招き入れることだ。
そうすることによって、全く違う次元を生きる命が始まる。

もちろん、見た目は何も変わらない。
もし変わるとすれば、その人が生き生きとしてくる
ということかもしれない。
この世の価値観に縛られない自由さを得るからだ。
目に見える富や名声が人を幸福にするという価値観から
解放される。
神こそが命のパンであり、そのパンを食べる者は
永遠に飢えることがないと信じた人にとって、
そういったものは、あれば感謝、
なくても思いわずらうことはない。
それが永遠の命を生きるということかもしれない。

生きたパン

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ヨハネによる福音6章1-15節

おなかをすかせた大勢の群衆をあわれに思い、
5つのパンと2匹の魚を増やして与えるこの奇跡物語は、
復活祭のこの時期に必ず読まれる。
一見、復活祭と何の関係があるかと思われるかもしれない。
しかしながら、イエスこそ、人々に永遠の命を与えるために
割かれた生きたパンであり、それをいただく私たちは
本当の意味で満たされ、永遠に飢えることがないのである。

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