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カテゴリー「今日の福音」の検索結果は以下のとおりです。

壮大な神の計画

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第一朗読:使徒言行録13章13-25節
福音朗読:ヨハネによる福音13章16-20節

今日の第一朗読と福音に共通するのは、
イエスの死と復活によってもたらされた
神の計画のスケールの壮大さである。
神は気が遠くなるほどの年月をかけて
それを準備されたということである。

「…『私のパンを食べているものが、私に逆らった』
という聖書の言葉は実現しなければならない」と
イエスが言われたように、イエスは旧約時代に預言
されたことを成就していかれた。つまり、ご自分が
選んだ使徒たちの中に裏切り者がいることをはじめ
から承知していた。神のご計画は人知を超えるもの
であり、裏切りという悪を通して、救いの実現に
道が開かれたのだった。

神がいかに長年にわたって私たちの救いを計画し、
準備してくださったかが、第一朗読に書かれている
パウロによるイスラエルの歴史の総括によってもわかる。

「神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び…」
「これは、約四百五十年にわたることでした」
「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに
救い主イエスを送ってくださったのです」…

神の私たちへの限りなく忠実な愛を思えば、日常に起こる
不快な出来事や難しい関わりは避けるべきものではなく、
イエスのように受け止めて思いめぐらす態度が必要なの
かもしれない。神のご計画を無にしてしまわないように。

信仰は恵

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ヨハネによる福音10章22-30節

今日の福音の中で、イエスは言われる。
「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と。
なんとなく、違和感がある。
「あなたたちはわたしの羊ではない。私を信じないからである」
と言ったほうがもっと自然な気がする。
しかし、ここにイエスと御父との関係性が秘められている。
つまり、父なる神によって準備された魂だけが、キリストの
声を聞き分けることができるようになるのかもしれない。
誰もが、そしていつでもキリストの声に救いを見いだすわけではなく、
すべてのことには相応しい時がある。神が備えてくださる時である。
願ってもすぐには得られず、願わずとも与えられることもある。
信仰は恵なのだから。

命のパン

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第1朗読 使徒言行録8章1-8節
福音朗読 ヨハネ6章35-40節

ここ数日、命のパンについて語られている。
普通、パンは人に命を得させるがそれ以上のものではない。
置いておけば朽ち果てていく。しかし、イエスが自分の命の
代価として与えてくださった命のパンは、朽ち果てること
がない。そのパンを食べる者は「決して飢えることがない。」と
イエスは約束された。この世のパンは一時的には飢えを満たすが、
永遠の命のパンであるイエスを受け入れるとき、魂までも満たされる。

イエスの教えを述べ伝えたステファノが迫害され、命を失った。
しかしその迫害と死によって散って行った人々が、福音を告げ知らせ
他の地方にキリスト教が広められたことが今日の第一朗読で読まれた。

「一粒の麦が地に落ちて、死なないならただ一粒のまま残る。
一粒の麦が落ちて、死ねば多くの実を結ぶ」という歌を思い出す。

死が勝利をもたらす。これがキリスト教のパラドックスであり神秘である。

イエスの姿勢に倣う

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ヨハネによる福音6章1-15節

五千人の人たちに食べさせるためにパンを増やす奇跡が
復活祭のあとに読まれるのは意義深い。
弟子たちと共に「山に登り」、そこに集まってきた群衆を見て
憐れに思い、わずかなパンで人々を満腹させたイエスの姿は、
たしかに、十字架に上げられ人々の救いのために命を分け与え
それによって多くの人が永遠の糧に養われることになった
復活の神秘とご聖体の秘跡を想起させる。

今日の福音を注意深く読んでみると、私たちがイエスのどのような
姿に倣うべきかを学ぶことができると思う。
救いを求めて集まってきた人々を深く憐れ、行動を起こすイエス。
問題解決のために自分ひとりで事を運ばず、弟子に相談するイエス。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」…
「大麦のパン五つと魚二匹」…。どんなにちっぽけと思われるような
提案も大切にし、神に感謝してそれを最大限に活用するイエス。
「少しも無駄にならないように」残ったものを集めるイエス。
この人こそ王だ!と讃えられる前に、一人山に退かれるイエス。
自分の成功に酔いしれたり、行なった功績にこだわらない姿。

今日、イエスのどの姿を模倣することができるだろうか…。

偏見

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ヨハネによる福音7章40-53節

自分の考え方を曲げるのは何と難しいことか。
他人の確信を変えさせることも同様である。
自分の考えが一番正しいと思ったとき、
他の見方はできなくなり、自分の考えを立証する
ものしか入ってこなくなる。そうすると当然視野も
狭くなり、真実から遠ざかることも多い。
イエスを危険人物と見なし、亡き者にしようと
考えた当時の権威者たちもそうである。

「お前たちまでも惑わされたのか。
議員やファイサイ派の人々の中に、
あの男を信じた者がいるだろうか。」

その中で、ただ一人ニコデモは真理を追究する
開かれた心を持っていた。

「まず本人から事情を聴き、
何をしたかを確かめたうえでなければ、
判決を下してはならないことになっているではないか。」

人の意見、とりわけ反対者に耳を傾けることなしには、
正しい識別をすることは難しい。

生命の川の流れ

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今日の第一朗読は、神殿から流れる水が、
次第に大きな流れとなり、生命を与えながら、
死海へと流れ込んで行く様が描かれている。
とても美しい情景である。教父たちはこの
幻視についていろいろな説明を与えてきた。
十字架にかけられ、脇腹を槍で貫かれた
イエスから流れ出た血と水を想起させるという
解釈もある。確かにその血と水によって人は
永遠の生命を得ることとなった。
洗礼によって受ける諮りしれない恵みを描いて
いるとも言える。額に注がれる水はごく少量だが、
その人の生涯の中でその水の流れは次第に大きくなり、
とりわけ苦しい時、痛みの部分にその水が流れ込んでいく。
神の恵みの豊かさが、荒んだ所、いがみ合う関係、
妬む心、孤独な心を癒してくださることを信じていきたい。

本当の自由

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マタイによる福音5章17-19節

人間の一番深い望みは自由であることだと言われる。
それが人間に尊厳を与えるものである。しかしながら、
この自由がよく履き違えられる。自分のやりたいこと
すべてを行なうこと、自分の好きなもの全てを得ること、
それが自由の本質であると思っている場合が多い。
しかし、その行き着くところは、そのものの奴隷となることだ。
それなしには生きられない、つまりそれに縛られる結末となる
ことがしばしばである。

イエスは、当時、掟を廃止するために来たと誤解されたが、
今日の福音で宣言されているように、「廃止するためではなく、
完成するため」に来られた。イエスは私たちが本当の自由を
得る事を望んでいる。本当の自由とは、人に自分を自由に
与えることの出来る人。人のために自分の立場、計画、メンツ
さえも自由に捨てることのできる人だと思う。かなり難しい
課題であり、一生をかけて獲得していくものかもしれない。

求めなさい。そうすれば与えられる。

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第1朗読 エステル記C12 14-16,23-25
福音朗読 マタイ7章7-12節

今日の福音は、私たちが祈るときの姿勢を示してくれる。
神に必死に願い求めるなら、必ずこたえてくださる。
ただ、必ずしも私が望んだようにではないかもしれない。
「求めなさい。そうすれば求めたものが見つかる」とは言われない。
「探しなさい。そうすれば探したものが見つかる」とは言われない。
門をたたいて開かれるが、そこには想像もしなかったものを発見する
かもしれない。
天の父は、求める者に、必ずしも求めた物ではないかもしれないが、
「良い物」をくださると書かれている。

第一朗読の中でエステルも、「私に勇気をお与えください。
このわたしに雄弁な言葉を語らせ、…」と祈るが、
王のみ前に出た時、恐ろしさの余り血の気が失せてよろめき、
倒れてしまった。しかしながら、そんな弱々しさがかえって
王の同情心を呼び起こし、最終的に彼女の願いは聞き入れられた。

神に祈って聞き入れられなくても、すぐに諦めたり、失望したり、
呪いの言葉を吐くのではなく、時を待つ必要がある。
いつの日か、それが自分にとって「良い物」であったことに気づく
時が来ることを信じながら…。

灰の水曜日

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今日から四旬節。
カトリック教会の暦の中で、キリストの受難と死、
復活の神秘を深く黙想する季節の始まりである。
旧約時代、回心のしるしとして、灰をかぶって自分の罪を
悔いていたことから、教会では今日ミサの中で頭に灰を
受ける。

四旬節は特に3つのことを大切にするよう呼び掛けられる。
祈り、節制、愛のわざである。
人はとかく良いことをするとき、人に見てもらいたかったり、
ほめてもらおうとする。今日の福音の中でイエスは言う。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」
「祈るときには、奥まった自分の部屋に入って祈りなさい」
「断食をするときには、沈んだ顔つきをしてはならない」

人からの評価が得られず落ち込んでしまうとき、こちらの善意が
理解されず憤りを感じる時、イエスの言葉を思い出そう。
「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」

この世に積む宝はいつか朽ち果てる。天国に宝を積む気持ちで
この四旬節祈りと節制、愛のわざに励んでいきたいものである。

イエス、湖の上を歩く

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マルコによる福音6章45-52節

イエスがパンを増やして5000人に分け与えるという画期的な
奇跡を行なった後、弟子たちはますますイエスを見直したが、
もしかしたら、その喜びは人間的なものに留まっていたのかもしれない。
(この人についていれば、まず飢えることはない)
そんな弟子たちは、その直後、風や波さえも支配する力を目の当たりにして、
畏れの念を抱く場面が描かれている。

今日の箇所で面白いと思うのは、イエスが「通り過ぎようとされた」こと。
逆風にさいなまれてこぎ悩んでいるのを知って、なぜ…?と思うが、
イエスのきわめてデリケートな、相手中心の姿勢を見ることはできないか。
決して相手の自由意思にずかずかと踏み込まない、
相手の出方に合わせる姿勢。

神は決して過保護ではなく、私たちの信じる心が成長することを望んでいる。
私たちが自ら叫びをあげることを待っている。
その証拠に、「大声で叫んだ」弟子たちに対して、イエスは「すぐ」
彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

私のことを心にかけながらも、私の声をじっと待っていてくださるイエスに、
今年もついて行きたい。

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