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カテゴリー「今日の福音」の検索結果は以下のとおりです。

イエスの復活後・・・

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使徒言行録 4章1-12節
ヨハネによる福音 21章1-14節

イエス・キリストは死んで復活したのち、
40日間にわたってたびたび弟子たちに現れた。
初め信じられなかった彼らが、信じる者となったこと、
それ以上に彼らが全く新たにされ、勇気ある証人となったことが
ここ数日の第二朗読でわかる。

物乞いに来た生まれつき足の不自由なの男に対して、ペトロは
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、
歩きなさい」と言って完全に癒したことが知れ渡る。

自分の命を危険にさらしたくなくて、三度もイエスのことを
「知らない」と裏切った臆病者のペトロが、復活したイエスに出会い、
聖霊を受けたのち、180度変わる。
「あなた方は命への導き手である方を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
私たちはこのことの証人です」と力強くのべ、大胆に語る彼の言葉を聞いて
信じた人は多く、その数は五千人ほどになったと記されている。
イエスを十字架にかけて殺した権威者たちは危機感を覚え、今後
「イエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」とある。
イエスが復活しなかったならば、弟子たちは恐れに取りつかれ、
閉じこもったままで、イエスの名も永遠に忘れ去られたことであろう。

復活されたイエスは、決して神々しい光のうちに姿を現すことをされなかった。
とても普通に、地味に、つつましくご自身を現わされた。
今朝の福音では、弟子たちのために湖畔で朝食を準備し、
共に食事をされたイエスの姿が記されている。
復活されたイエスは、いつも私たちのそばにいる。
しかも、非常に日常的に。
それで、ついつい見過ごしてしまいそうになる。
普段の何げない出来事の中に、復活されたキリストの存在を
見出すことができる恵みを願いたい。

あの方は、ここにはおられない。

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今日の福音は、朝早くイエスの遺体に香料を塗りに行った婦人たちが、
空っぽになった墓を見てうろたえる場面が描かれている。
イエスが誰かの手によって墓から取り去られた…。悲しみに沈む婦人たち。
ところがそこに「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げる。

思いがけない不幸に見舞われたとき、私たちも
イエスのいない墓の中でただ嘆いているだけのことがある。
「こんなことをしても仕方がない」「なんの役に立つのか」
「どうせ、無駄だ」…悲観の穴の中に閉じこもってしまう。
生きておられるイエスを、死者の中に探すようなものかもしれない。
イエスは復活して、すぐそこにおられるのに。
すべてが空しく、先が見えない状態にあるときも、
勇気を持って扉を開き、外に出よう。
主は、墓の外におられるから。

イエス、弟子の足を洗う

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ヨハネによる福音13章1-15節

今日はカトリックの暦の上では聖木曜日と呼ばれ、
イエスキリストが死に渡される前晩、弟子たちとともに
最後の晩餐を行われたことを記念する日である。

今日の福音ではイエスが弟子たちの足を洗う場面が描かれる。
それは毎年祝われる過ぎ越し祭の食事であったが、その日の
イエスは少し様子が違っていた。
イエスは食事の席から「立ち上がって上着を脱ぎ、
手ぬぐいを取って腰にまとわれ」、「たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」のだ。
これは当時奴隷のする仕事だった。弟子たちが息をのんで
イエスの一挙手一投足を見つめていた様が想像できる。
ペトロはイエスが自分の足を洗うことを拒んだ。
(とんでもない!)
イエスの善意を受けとることよりも、イエスのために
何かをして差し上げることこそ愛だと思っていたのかもしれない。
しかしながら、神からの愛に素直に心を開くとき、
わたしたちは自分を人に与えるほどの愛を実践できるようになる。
極みまでわたしたちを愛されたイエス。その愛に満たされてこそ、
真心から互いに奉仕しあうことが可能になるのかもしれない。

メシアはガリラヤから出るだろうか

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今日の福音の中で、イエスキリストがいったい
誰であるのかという論争が起こる。
ある人たちは頭から否定し、考えを曲げない。
「メシアがガリラヤから出るだろうか」
「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じたものがいるだろうか」
「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」
人の言い伝えに捕らわれて、偏見の域を出ない。
そうやって自分たちにとって都合の悪いイエスを死に追いやっていく。

わたしたちの生活にも当てはまるかもしれない。
自分の主張を裏づけるものには喜んで耳を傾けるが、
相反するものには耳を閉ざし、目を閉ざし、心を閉ざす。
原発のことにしても、改憲のことにしても…。
いろいろな側面からの声、考え方に耳を傾けながら
真実を追い求めていくべきなのかもしれない。
すべてのことに開かれた姿勢を祈り求めていきたい。

父なる神と、子であるイエス

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ヨハネによる福音 5章17-30節

カトリック教会では今、キリストの死と受難を黙想する
四旬節という季節を送っている。
今日の福音を読むと、なぜイエスが死に渡されるように
なっていったかがわかる。
当時のユダヤ人にとって、安息日に働くことは断じて
禁じられていた。
しかしイエスは、ご自分のもとに癒しを求めに来る人達を
安息日だからといって、放っておくようなことはなさらなかった。

一方、ユダヤ人にとって神は唯一であり、
自分は神の子であるとのイエスの主張は
彼らにとって冒涜以外の何ものでもなかった。
「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと
ねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、
神をご自分の父と呼んで、ご自身を神と等しいものとされた
からである。」とある。

今日の福音には、父なる神と、子であるイエスのきずなの深さが
書かれている。イエスは言う。
「わたしは自分では何も出きない。…わたしは自分の意志ではなく、
わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

イエスでさえ、自分勝手に行動されなかったのだ。
祈りのうちに、すべて父なる神に相談して事を行われた。
それならなおさら、わたしたちはそうあらなければならない。
自分の力だけで、神のみ旨を知ることなんてできない。
それはかなり自分よがりのものになりやすい。
神のみ旨と言いながら、自分のみ旨を追及していることが多い。

イエスの模範を見ることによってのみ、知ることができる。
イエスはこのような時、どう行動しただろうか…。
イエスだったら、こんな時、何と言うだろうか…と。

求めなさい。そうすれば、与えられる。

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マタイ7章7-12節

苦しい時の神頼みという言葉がある。
神に願うとき、自分が欲しいものを与えてくれるようにせがむのが常だ。
しかし今日の福音は、必ずしもわたしたちが望んでいる
人間的な解決や答えが、与えられないことを教えている。
「求めなさい。そうすれば、求めたものが与えられる」とは決して書いていない。
「門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」
玄関のドアをノックして、必ずしも自分が会いたい人が出てくるとは限らない。
祈りは欲しい恵がいただける自動販売的なものではない。
子どもが欲しがるものを欲しがるだけ与えたらどうなるだろうか。

神は私たちの信仰が深まること、霊的に成長することを願っている。
必要な時に、必要な恵みをくださるのだと思う。
だから、頂けないからといってすぐにあきらめず、
信頼して、求め続けることをしていきたいと思う。

わたしにしてくれたこと

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マタイ25章31-46節

「はっきり言っておく。わたしの兄弟である
このもっとも小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。」

この言葉は、私たちにとってとても意味深い言葉である。
なぜなら、初期の会員たちはこの聖書の言葉を、
宮崎の地で文字通り生きた。
着るものがない人に着せ、
食べるものがない人に食べさせ、
寂しい人を訪問し、
病める人を介抱し、
見捨てられた人に希望の福音を告げた。

神は貧しく小さくされた人々の中にご自身を隠される。
わたしたちは自分によくしてくれる人たちとばかり
交わっていないだろうか。
わたしたちはどこでキリストと出会っているだろうか。
わたしたちの助けを必要とする人々の中におられる
キリストと出会っているだろうか…。

天地創造物語

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創世記1章1-19節

今日も福音ではなく第一朗読を分かち合いたいと思う。

今日と明日は天地創造の物語がミサの中で読まれる。
聖書の一番初めの文書だ。
いつ読んでも、神様の偉大さと親心を感じる。

この物語は宗教的な物語であり、
私たちがすべて神様によって存在し、
一つ一つの存在が認められ、大切にされ
愛をもって見守られていることを伝えている。
愛していなかったら創られなかったはずだ。

罪が世に入り、争いや憎しみに傷ついた世界になってしまったが、
初めからそうではなかった。

本来持っている良さを引き出し、
本来持っている素晴らしさを活かし、
本来持っている輝きを取り戻すこと、
それが教育なのかもしれない。

愛の讃歌

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今日のミサの第二朗読の聖書の言葉は
いつ聞いても感動する。
神の無償の愛のことをラテン語で「カリタス」というが、
まさにその愛について描かれている。

愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
(使徒パウロのコリントの教会への手紙12章)

夫婦の愛、親子の愛、恋人同士の愛、
兄弟愛、隣人愛といろいろある。
どれをとっても、この”神の愛”に支えられていれば、
滅びることがないのかもしれない。

種蒔きのたとえ

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マルコによる福音4章26-34節

今日の福音は種まきのたとえ話の続き。
種は土に蒔かれると、一見何の変化も見えないが、
知らないうちに成長していく。
それと同じで、私たちの心に蒔かれた神のみ言葉も
それを素直に受け入れることにより、心は豊かになっていく。
私たちが霊的に成長するのは、私たちの必死の努力や
持ち前の能力によるのではないのかもしれない。
ただひたすら神の恵みによるのだということを
忘れないようにしたい。

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