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聖パウロの回心劇

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使徒言行録9章1節~22節

今日は使徒聖パウロの回心を記念する日。
それで、福音ではなくパウロがどのように変えられたが
記されている今日の第一朗読について分かち合いたい。

人が回心するプロセスはさまざまだが、
大まかに分ければふた通りだと思う。
(このままの生き方ではいけない)と悶々としながら、
じわじわと回心するケース。
あるいは、何か大きな事件が起きて、
即座に生き方を変えるケースだ。

パウロは後者だった。
キリスト者の「男女を問わず縛り上げ」連行するために
旅をしていた道中、突然天からの光を受け、視力を失う。
そして天から声が聞こえた。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」 

そんなバカな! 

パウロはただただ正義感に燃え、
自分がしていることは正しいことだと信じて、迫害していた。
生まれたときからユダヤ教の律法に忠実に生きてきた彼にとって、
神の子と名乗るイエスの教えを信じる人々は彼の目に
異教徒、異端者と映ったとしても不思議ではない。

視力を失った3日間、彼は何を思って過ごしたであろう。
(イエスという人物は、やはり我々が待ち望んでいる
メシアだったのか…。
だとしたら、自分は何ということをしていたのだろうか!)

この打ちひしがれた闇の体験があって、彼は新しく生まれ変わる。
持ち前の熱心さ、大胆さでもって、今度はキリストのために
命さえ惜しまない使徒に生まれ変わるのである。

神に選ばれた器、パウロ。
迫害も、困難も、無理解も、
神の計画の中ですべては善に変わっていくのかもしれない。

権威ある新しい教え

マルコ1章21-28節
イエスって本当にかっこいいなーと思う箇所の一つである。
「権威あるものとしてお教えになったからである」とある。
イエスの堂々とした姿は人々の心を打った。
この人は今までの先生たちとは違う!と。

その当時、律法学者たちは教えをほどこす時には
「~の中では、このように言われている」
「~の書では、次のように言われている」といろいろな書物や伝統、
昔の教師たちの教えに言及するのが常だった。
しかしイエスは違った。
「昔からこう言われていた。しかし、私は言う。」
この権威ある新しい教えに人々が希望と期待を感じ始めていた。

人の成功を喜ぶ

ヨハネ3章22-30節
今日登場した洗礼者ヨハネはイエスの親戚であり、
聖書によれば6か月先に世に生まれた。
イエスの到来を準備する最後の預言者として、
人々に回心を呼び掛け、ヨルダン川で洗礼を授けていた。
イエスもまたそのヨハネから洗礼を受けた。
&
そのイエスが今度は人々に洗礼を授けはじめ、
人々がイエスのもとに流れていくことを心配したヨハネの弟子たち。
人間的な考え方をすれば、ヨハネが嫉妬心をいだいたり、
いじけたりする理由となってもおかしくはなかった。
しかしヨハネは違った。
自分の使命をわきまえていた。
「あの方は栄え、私は衰えねばならない。」

自分より人が秀でていくとき、
自分より人が称賛を得ていくとき、
それを素直に喜べるだろうか。
ヨハネの謙虚さに倣いたいものだ。

イエスと皮膚病患者

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ルカ5章12-16節

今日の福音を読むと、イエスがどういう風に病人に
関わったかがわかる。

近づいてきて治してくれるようにと懇願する
重い皮膚病患者(今でいうハンセン氏病)に対し、
「手を差し伸べてその人に触れ」癒された。
神の子だったら、あえて触れることなく一言で癒せただろうに、
感染する危険をもいとわなかった。

福音書にはたびたびイエスが病人の上に手を置くシーンがある。
口のきけない人の口に自分の指をさしいれたり。
自分に触れてくれたというだけで、
どれほどの人の心が救われたであろう…。

イエスのデビュー

ルカ4章14-22a節

今日の福音は俗っぽく言うと、ある意味イエスのデビューの情景が描かれていると言えるかもしれない。何か、息をのむ情景が目に浮かぶ。イエスはユダヤ教徒として小さいころから会堂に通っていただろう。そして、この日朗読するようにと手渡された巻物は、救い主の到来を預言した箇所であった。すでにその評判が広がり人々からの尊敬を受けていたイエス。この人がもしかしたら、待ち望んでいたメシア(救い主)かもしれない!と思っていた人々は、イエスがこの預言のことばについて何とコメントするかを固唾をのんで見守っていたのだろう。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」。これを聞いて、会堂内はどよめいたのだろうか。それとも、波打ったように静まり返っただろうか…。

この宣言のあとイエスは3年間、実にこの預言どおり、多くの人の病を癒し、罪の重荷、心の重荷から解放したのであった。帝国ローマから解放するという輝かしいメシア像を抱いていた人々が、その期待を打ち砕かれてイエスを死に渡すまでの3年間だった。

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ

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昨日まで、幼子だったイエスの姿を黙想してきたが、今日は成人し、公の場で神の子としての活動を始められたイエスの姿が描かれている。30歳ごろのことと言われている。イエスの活動の場は、エルサレムのような輝かしい都から遠く離れたガリラヤ湖周辺であった。「暗闇」とか「死の影の地」という言葉に表わされる、どちらかというと人々から見下されたような地だった。そこからイエスは出発する。歩き、教えを述べ伝え、人々の病をいやし続けた。医者にかかるお金もなく、長く患い、あきらめの中に生きてきた人々に光が差し込んだ。

30年間、人として普通の生活を送られたイエスは、人々の喜び、悲しみ、苦悩を体験されたからこそ、まずガリラヤをくまなく回られたのだろう。神のいつくしみが、人となって生まれたイエスを通して世に現わされた。人々が何世紀にもわたって待ち望んでいた救い主の到来だった。

イエスの住んでいるところにとどまる、それで十分

ヨハネによる福音1章35節ー42節

今日の福音は、一見少々物足りないというか、
消化不良を起こしそうになる。
イエスの泊っておられるところに行った彼らが、
いったい何をしたかがまったく書かれていない。
どんなことをイエスと語り合ったのだろうか。
イエスと一緒に祈ったりしたのだろうか。
時間からして、おそらく夕食をともにしたに違いないなど、
想像の域をこえない。

しかし、何かあったはずである。
というのは、そのあと彼らは、今までの師を離れ、
イエスにつき従っていくことになるのだから。
福音の記者であるヨハネは、あえて根本的なことした記さなかった。

イエスが呼びかける。その呼びかけにこたえて着いていく。
イエスの住まわれるところを見、そこにとどまる。
それだけで十分だということかもしれない。
イエスと何を語り、イエスに何をしてあげられるのか。
そういったことはたいしたことではなく、
イエスのおられるところに共にいる。それが大事。

一日の終わりに聖堂に行く。
ときどき、何を祈っていいのか、
イエスに何と話しかけていいのかわかない時がある。
でもそれでいいのかもしれない。
イエスは、あまり多くのことを期待していないのかも。
ただイエスのおられるところにとどまるだけでいいのかもしれない。
今日の福音は、そんな安心感をくれた。

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